【両腕がない】まこ先生の「障害と挑戦」を考えるブログ

特殊な自分だからこそできることを発信していきます!!

【お節介】の重要性。別に嫌がられてもいいじゃないの。

みなさんこんにちは。まこだぉです。

今回は久しぶりに障害関連の記事を書きたいと思います。
(ちなみに今回もリライト記事です。一度読まれた方にはすみません)
いや、何も障害に限らず、こんな社会になればもっと多くの方が暮らしやすくなるのになぁ…と思うことを徒然なるままに書いていきます。笑

人助けって、する側もされた側も良い気分になれるものですよ。

母に車椅子を押してもらっている自分

※車椅子を押しているのは僕の母です。

 

 

「お節介」って善?悪?

いきなりですがみなさん。
みなさんにとってお節介とは「善」ですか?それとも「悪」ですか?
こう聞かれるとすぐに答えられないのではないかと思います。

現に僕もこの質問に対してははっきりと答えられません。なぜかと言えば、これはTPO次第であることが多いですし、何より僕自身、お節介を焼かれて対応に困った経験も少なからずあるからです。

ただそうは言っても、仮に「悪」だとしても、僕はそれは「必要悪」だと考えています。決して不要なものではありません。お節介に似た行為に助けられた経験も多々ありますし、どんな社会においてもなくてはならない行為だと思います。
なので「お節介ってほんとウザいよね~」と考えている方は、ほんの少しでいいので見方を変えてみてほしいなと思います。あるいは、万が一「自分がされる」ことは嫌であっても、「自分がする」ことを嫌にはならないでほしいなと思います。

 

最近したお節介

ところでみなさん。
最近何か「お節介」しましたか?
僕はと言うと、つい先日自宅のロビーにいたイモムシを、「この場所にいたままじゃ誰かに踏まれてしまう」と思い、近くの茂みへと連れて行ったくらいです。笑
イモムシからすれば「せっかくここまで歩いて来たのに!」と思ったかもしれませんが、死んでしまうと元も子もないので、イモムシの心中も考えず完全に僕のエゴで移動させた次第です。
・・・対象が人でないので書いていておかしく思えてきましたが…笑

でも「お節介」ってこういうことなんだと思います。相手のために、自分勝手ではあっても良かれと思って行動に移すこと。そうですよね。
それが果たして本当に「いいこと」なのかどうかは、自分にはわかりません。でも、そうだとしても僕は「お節介」ってすごく大事なことだと思うんです。
(厳密に言えば「お節介」とは少し異なるのかもしれませんけどね…)
なのに最近は、相手のことを考えすぎてこの「お節介」ができる人がとても少なくなってきたように思えてなりません。これがすごく、すごく残念なんです。

 

障害者の味方?いいやそれは違う。

話がやや脱線してしまいますが、こんな僕にも、何かお手伝いをしたくなる人とあまりそうは思えない人がいます。
例えば障害のある方と一緒にいるとして、「何かしてあげたい!」と思える方とそうでない方がいるのも事実です。
僕は自分に障害があるからか、「障害のある方の味方」だと勘違いされることがよくあります。実際に障害のある方に
「君は自分が障害者なのに障害者の味方ではないのか」
と言われたこともあります。
もちろん、基本路線としては人のお役に立ちたいので、気付いたことや自分にできることは率先しておこなうように心掛けています。が、だからと言って全面的にそっち側(=障害者側)の人間かどうかと言うと、決してそうではありません
それはおそらく、僕は障害がありながら一般社会(=健常者世界)で育ってきたからだと思います。一応どちらの良し悪しも見てきており、どちらの感性も備えているからだと勝手に思っています。肩入れしたくてもできない人があまりに多いのが現実なんです。

ところでなぜ今こんな話をしているのか。それは続きを読み進めていただければ納得していただけると思います。

 

お節介したくなる相手とは~常に「礼儀」と「感謝」の心を~

話を戻します。

では僕はどういった人に「力を貸したい」と思うのか。あくまでも僕の場合ですが、僕がお節介を焼きたくなる人の特徴は、「礼儀」や「感謝」の心を常に持っている人です。
これらが足りない人の味方には断じてなれません。たとえその方に重度な障害があったとしても。たとえその方の境遇や環境がどんなに壮絶なものであってもです。
でも実際そうですよね。相手に何かしてもらえたら、その気持ちと行為に対して感謝の意を示すのは当たり前だと思っています。

ただ…わりといるんですよね。人の「善意」を踏みにじるというか、露骨に拒絶反応を示す方。それこそ電車の優先座席とか食事の介助時とか(障害者だけでなく高齢者なども)。
された「あなた」は嫌かもしれませんよ。
「自分にそんな気遣いはいらない!」となるんでしょう。
その気持ちもわからなくはないです。

でもね、あなたがよろしくない対応をとることで、良かれと思って、勇気を出して声を掛けた人はもう二度と「お節介」ができなくなるかもしれない
そのことがトラウマになって、今後困ってる人を手助けできなくなるかもしれない。そしてそれが原因で、手助けを必要としている方が救われなくなるかもしれない
それって寂しくないですか?

僕は自分がこんな身体だからよくわかるし、実際に身をもって感じたことも多いのですが、障害のある人(まあ高齢者もでしょうけど)は他の障害者と、何かと一括りで考えられることが多いような気がするんです。
だから、例えば一人の障害者(高齢者)がよろしくない対応をとってしまうと、みんながみんなそうだと思われかねないんです。
そういうことも考えた上で、自分のことを何かしら考えてしてくれた人や行為に対し、礼儀をもって対応するべきだと思います。

別に相手の行いが「偽善」でもいいじゃないですか。偽善を作り出せるだけでも立派なものだと思います。その「偽善」に救われる人も必ずいるんですから。

まぁとにかく、相手の行為に対して、上辺だけでも「ありがとう」と言えない人、僕は拒絶しちゃいます。笑

 

お節介できる世の中であれ

幸運にも、僕はちょくちょく「お節介」をしてもらえます。
これまで書いてきたように、それが嫌な方もいます。
でも僕は「お節介」が大好きです。

なので、もしこの記事を読まれている方の中に、
「お節介はすべきなのかすべきでないのか」と悩まれている方がいらっしゃれば、
ぜひともお節介してあげてください」と言いたいです。笑
ぜひこれからも続けてほしい。

もしそのお節介に何らかの形で噛み付いてくる人がいるならば、その人は所詮その程度の人間だということです。相手の善意や勇気、さらに言えば自分以外の人の問題を慮れない人間です。どんな対応をされようと、その件は水に流してください。笑
それ以上に大事なことがきっとあります。
そのお節介に救われる方がきっとたくさんいらっしゃいます。

仮に、仮にですよ。
それが10人に1人の割合でもいいじゃないですか。1人でも救われる、あるいは嬉しいなと感じてくれる人がいるならば、僕は絶対にすべきだと思います
ありったけの善意を押し売ってやればいいと思います。僕は、ね。笑
ただし自らを犠牲にしてまでする必要はないと思いますよ!

たとえ制度がどれだけ充実しても、たとえインフラがどれだけ整備されても。結局最後は人と人との助け合い・支え合い、これが最強だと思ってます。
それが自然にできる世の中になればいいな、あわよくばそういう社会にしていきたいな、と思っています。

僕の生涯の夢の一つです。

 

最後に~自分の心に素直になろうよ~

とまぁこんな具合に、今回は「お節介」について熱く書かせていただきました。
人助けという行為、人の役に立つ行為って、結局は「自分の心に素直になる」ことから始まるものだと思うんです。

「自分が何かすると相手は嫌な気分になるかもしれない」みたいに、相手のことを考えだすとキリがありません。だって相手が考えていることを100%理解することなんて不可能ですから。でも、近頃はなんだかみんな変に相手のことを気にし過ぎちゃって、結局は何も行動に移せない、なんてパターンが頻出しているように思います。これってすごくもったいないことだなと思うんです。

「思い立ったらすぐ行動!」とはならないでしょうし、それはめちゃくちゃ難しいことは百も承知です。でも、「声を掛けた方が良いんじゃないか」「自分にもできることがあるんじゃないか」と感じたならば、あとは自分のその「心」に従って行動に移すことがベストだと僕は思います。

「お手伝いしましょうか?」
「できることがあれば何でも言ってくださいね」

僕はこういった言葉に何度も救われてきましたし、こういったお声掛けをいただいただけで、その日1日をハッピーな気分で過ごせるんです。この点に関しては、僕は「自分のような考えの人がもっと増えればいいのにな」と思えるんです。笑

まぁ要するに、
「自分が良かれと思ったことはとりあえずやってみよう!」
「たとえ不要なことでも、自分のことを思ってしてくれた行為にはとりあえずお礼を言おう!」
これを言いたかった記事でした!笑


強引ですが今回はこれにて終了ということで。笑
それでは最後まで読んでいただきありがとうございました(`・ω・´)!