【両腕がない】まこ先生の「障害と挑戦」を考えるブログ

特殊な自分だからこそできることを発信していきます!!

立場が違えば見方も変わる~自分本位の考え方と発言はNG~

みなさんこんにちは。まこだぉです。
ブログの更新が大変遅れてしまいました。こんなんじゃだめですね。

今後はもっと更新できるよう頑張っていきたいと思います(`・ω・´)!

 

そしていきなりですがみなさん。

障害のない方は、障害のある方の気持ちを考えたことがありますか?
障害のある方は、障害のない方の気持ちを考えたことがありませか?

特に何も考えず、相手のことを悪く思ったり、悪く言ったりした経験はありませんか?

今回はこういった「互いの立場」と「異なる立場に対する考え方」について、僕なりの見解を書いていきたいと思います。

障害者の立場である自分の写真

※この写真は当記事と何ら関係はありません。笑

 

 

アンチ「好き放題」

「障害者」vs「健常者」の構図

ちまたでよく「障害者」vs「健常者」の構図を見かけます。立場の異なる人間が、相手を一方的に口撃するアレです。
僕はアレを見るたびに「好き放題言うよね~」と感じるタイプの人間です。なおかつ露骨に不快感を感じるタイプの人間です。

特に最近、ネットニュースやコメントなどでよく「障害者様」という言葉を見かけます。軽蔑の意味合いが強く込められた「様」という敬称、言うまでもなく不愉快です。あと、

「障害者は年金をもらって生活しているんだから偉そうなこと言うな!」
「お前らは社会に何か貢献しているのか!」

とかもです。もちろん不正受給であったり、怠惰で仕事もせず年金で生きてる人もいますよ。中には社会の足を引っ張る人も、ね。

でも、もちろんみんながみんなそうじゃない。決めつけてほしくありません。健常者の何倍も努力して、自力で生計を立てている方だってたくさんいます。そういった部分にまで目を向けて、考えてから物を言ってほしいと思います。

とは言うものの、だからと言って障害のある方を全面的に擁護する訳ではありません。

「健常者は自分勝手だ!」
「もっと障害者を大事にしろ!」

などと平気で言う障害者も大嫌いです。

あと自分の障害に甘えて何の努力もしないくせに、

「障害者にもっと権利を!」

とただただ権利だけを主張する人。

僕自身も障害があるから気持ちはわからなくもないですよ。ただね、「それは都合良すぎなんじゃないの?」と感じることも多々あるわけです。色んなケースがあるから一概には言えませんけどね。

 

「障害者」「健常者」という呼び方について

あ、そうそう。話は脱線してしまいますが、僕は「障害者」や「健常者」といった言い方があまり好きではありません。
特に深く考えず、好き放題この呼び方で相手を、または自分を呼ぶ方がたくさんいらっしゃいますが、この記事を読んでくださっているなら、以降ぜひともお気を付けいただければと思います。
僕はブログでは便宜上これらの単語を使用していますが、日常生活で使うことはほとんどありません(自分を障害者と呼ぶことはありますが)。
なぜこういった呼び方を嫌うのかについては、以下の記事で詳しく書いてありますので、こちらも合わせてお読みいただけますと幸甚です。

www.makodao.com

 

 

「わからない」なりの姿勢

立場の違いと理解への姿勢

ではここで、話を元に戻します。

冒頭で「障害者」vs「健常者」の言い合いはつまらないと書きました。
それはなぜか。

考えるまでもなく「互いの立場が違い過ぎる」からです。そして「互いの立場を理解しきれるわけがない」と僕は思うからです(こう言い切るのはまずいでしょうか)。

でもね、とりあえず僕が主張したいのは「相手の立場ももうちょっと考えてみろよ」ということです。
そしてもう一つ、「自分の立場の主張ばかりするなよ」と言いたいんです。

「相手を理解しよう(^O^)/」なんて綺麗事は言いません。

色んな考え方があると思いますが、上でも書いた通り、僕は相手を理解するなんて不可能だと考えているからです。

僕にとっては「相手を理解する」という言葉はすごく薄っぺらい言葉です。細かい話になりますが「理解しようとする」ならいいですし、とても重要なことなんですけどね。

 

わかり合えない絶対的な「差」

例を挙げるとするならば、「健常者」が「障害者」の視点や経験を得ることはまず不可能です。

例えば僕を引き合いに出すと、みなさんが僕の立場で物事を考えることは難しい。
だってみなさんには腕があるから。「腕のない世界」を想像することはできても、「あー、こういうことね、ふんふん」と理解するのは無理だと思います。

これは逆の場合も然りです。

「障害者」が「健常者」の視点や経験を得ることもできないでしょう。
これも簡単です。腕のない僕にはコップを握る動作すらできません。そもそも指先を動かす感覚すら理解できないですもん。

何も僕に限らず、例えば「生まれつき歩けない人」だってそうです。地面を蹴飛ばして風を切る、あの走る感覚がわからない。

経験できない物事はその視点を得ることだって不可能です。

そしてこれは何も障害の有無に関するだけの話じゃありません。

「健常者」同士だってわからないことだらけだと思います。そうでなければ人間関係に苦しむ人はもっと減るはずです。

また「障害者同士」も同じくです。
目の見える僕には目の見えない方の世界がわかりません。想像すらできない。

結局、自分以外のことなんて、自分にないもののことなんてわかりっこないんです。
決してネガティブに考えているわけではないですよ。

「他人のことなんて自分のことのように理解できるよ!」

なんて考えるとしたら、それは自分勝手で思い込みが激しく思い上がりも甚だしいと思います。その勝手な思い込みが相手を深く傷つけることだってたくさんあるんです。

 

相手を思いやるということ

でも人間、相手のことを考えることはできるんですよね。だから

「理解できないことは考えたことがない!考える必要すらない!」

となってはいけないと思うんです。

何か主張する前に、何か相手を非難する前に、

「自分が相手の立場ならどうか」

ということを少しでも考えられれば、もう少し思いやりのある社会になると思うんです。その上で、善悪の判断をしてほしい。

それでも「やっぱりそれはおかしいんじゃない?」と感じられるなら、しっかりとした根拠をもった上で非難するのはいいと思います。

でもだからと言って、相手側を傷つけたり不快にさせたりするような言葉は決して言っちゃいけないと思います。
あくまでも「自分なりに考えた」だけであって、相手側を完全に「理解しきれた」訳ではないはずですから。
好き放題言いたくなるのはめっっっちゃくちゃわかりますけどね。笑

 

脱・一般化

でも「わからないなりの姿勢」というものがあると思います。わからないことは、お互い何をどう言おうと、一方通行にしかなりえないと思います。

自分のことを「理解しようと思わない人」は、こちらからもその相手を「理解しようとはならない」ですよね、きっと。だから
「障害者は〇〇だ!」とか「健常者は〇〇だ!」とか、そんな不毛な言い合いはもういいやんって思います。
立場違うねんからあんまり大きなこと言わん方がいいって、と。
思うだけにすりゃいいのにって思います。

その人個人を通り越して、「障害者は◯◯」「健常者は◯◯」という一般論にしちゃいけないと思います。

 

 

まとめ

誰しもが自らと立場の異なる人に対して、また理解のできない人に対して嫌悪感を抱いたり、悪口を言ったりしたことがあるかと思います。
それが例えば、相手が犯罪やルール違反を犯していたり、倫理道徳に明らかに反した言動をとったりしている場合にはやむを得ないかと思います。
現に僕もそういった場合にはとことん腹を立ててボロクソ言ってしまう人間なので。笑

ですが、そういった特別な事情がある訳ではない中で、相手の状況を省みず、ただただ自分の物差しだけで判断するのはやっぱりよろしくありません。

相手を侮蔑したり、暴言を吐いたり、自らの権利ばかりを主張したりするだけでは、互いの溝が深まる一方だと思います。
ネットが普及し自分の想いを発信しやすくなった今日において、特にこういった傾向が感じられます。

一部の特定の人だけが生きやすい世の中ではなく、なるべく多くの人々が生きやすさを、そして幸福を感じられる世の中にするためにも、一人ひとりが自分本位になるのではなく、自分以外の多種多様な立場にある人々を思いやれる世の中になってほしいと願う今日この頃です。

 

以上、今回はただただ僕の願望を書きなぐっただけの記事でした。笑