【両腕がない】まこ先生の「障害と挑戦」を考えるブログ

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「障害者」「健常者」という呼び方について

いきなりですが、僕は「障害者」や「健常者」といった呼び方、言い方があまり好きではありません。

ブログでは便宜上これらの単語を使用していますが、日常生活で使うことはほとんどありません。

今回はなぜ僕がこういった呼び方を嫌うのかについてお話したいと思います。

ちなみにみなさんはどのように呼んでいますか?

あまり意識されない方がほとんどでしょうし、それがある意味当たり前かもしれませんが…。

「健常者」「障害者」の呼び方についてのイラスト

 


「障害者」という言葉のニュアンス

「障碍者」「障がい者」という表記

まず前もってお話しておきますが、僕は「障害者」を「障碍者」「障がい者」と表記するのも好きではありません。いや、好きではないというより、

表記を変えたところで何の意味があるん?

と素朴に疑問に感じてしまうと言った方が正しいでしょうか。
 

そもそもこの「しょうがい」表記については、その歴史的変遷や意味合いについて内閣府が以下のリンク先PDFで事細かにまとめています。

https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_26/pdf/s2.pdf#search=%27%E9%9A%9C%E5%AE%B3+%E8%A1%A8%E8%A8%98%27
 

なんというか…僕個人としては「どうでもええわ」と思う点が満載でした。笑

「そもそもチャレンジドって何?聞いたこともないし」という感じです。笑
 

結局のところ、表記をどれだけ変えたところで意味は変わらないと思うんです。

それに以下で詳しく書きますが、「害」であろうが「碍」であろうが「がい」であろうが「障害=妨げ」であることに変わりはありません

そこに目くじらを立ててとやかく言う必要はないんじゃないか、というのが僕の考えです。

 

「害」が表す意味

この「害」という字はそのままの意味です。そして障害それ自体が害であることにも異議はないと思います。だって「わずらわしいから障害」なんですから。

でも…これは僕の感性の問題かもしれませんが、「障害者」という言い方は、周りの人間に「害」を与える者といったニュアンスに感じてしまうんですよね(ちなみに「表記」と「言い方・呼び方」は別物ですよ!←ここ大事)

もちろんみなさんはそんな意識を持たずして使用されていると思います。ですが言葉の構造上、この「障害者」という言い方は「自分に障害がある者」とも「人に障害を与える者」とも捉えうると思うんです。まぁ言葉のあやみたいなものですが…。

そうは言っても、語弊を恐れずに言うならば、もちろん「害」を与える人や意図せず与える場合もあるとは思います。現に事件なども起きているわけですからね。
ですが、普段から無意識かつ一様に「障害者」と呼んでしまうのは、僕は少し引っかかってしまうんですよね。

みんながみんな、そして毎度毎度誰かに「害」を与えるわけではないですから。

 

僕なりの「障害者」の呼び方

なので、僕は普段は「障害のある人」もしくは「障害を抱えている人」と呼ぶことにしています

この言い方だと、純粋に「自らに何かしらの障害を抱えている人」と捉えることができるからです。「言葉の捉え方次第でしょ!」と言われればそれまでかもしれませんけどね。笑

でも「障害のある人」という呼び方は単に「障害者」と呼ぶのと異なり、「誰かに害を与える人」というニュアンスには絶対になりません。これだけは断言できます。


それに僕自身、「あなたは障害者だ」と言われるより「あなたは障害のある人だ」と言われる方が気分としてはずっといいです。それは上述の理由はもちろんのこと、

「あ、この人は呼び方・言い方一つであってもその内奥を考えられる、配慮のできる人なんだな」と思えるからです。

逆に何でもかんでも「障害者」と呼ぶ人に対しては正直良い気がしません

それは決して差別がどうのこうのといった問題からではないですよ。

相手に対する心配りがやや欠けているのかな、と感じるからに他なりません。

 

 

「健常者」という言葉のニュアンス

区別する表記上での「健常者」

一方で、「健常者」という言い方は、それこそ「障害のある人」に比べて「優生的」な表現であるように感じてしまいます。まぁ二元論的に考えてしまっている僕に非があるのかもしれませんが…。

もちろん「障害者」とは区別して呼ぶ必要があるので、あくまでも区別する・分類するための一表現として使われるのであれば理解できます(いろいろと引っかかる部分はあるので、それは以下で説明します)。

 

自らを「健常」と言い切れる自信はどこから?

ただし、自分自身のことを「健常者」と呼ぶ人はあまり好きではありません。好きではないし「よくそう言い切れるな…」と感じてしまいます。

あなたにも1つや2つ絶対何かしら問題はあるでしょう」と思っちゃうんですよね。

何をもって「健常」とするか――その定義をどうするかによっても異なってくるとは思いますが、よくもまぁ「私は健常ですよ」と言えちゃうなぁと思います。

だって心身のどこにも疾患のない人なんてまずいないと思うんです。身体に疾患がないことは客観的に測定できますが、心に何の問題もないなんて自分でわかるのか?誰も傷つけたことがない人なんて実在するのか?と。

それこそ「私は健常です」と自信を持って言える人、面と向かって相手に言える人ほど、自分では把握しきれていない何かしらの問題を抱えているんじゃないの?と思います。

少なくとも僕は、仮に今身体に障害がないとしても、自分が健常だなんて口が裂けても言えません。内面に問題がアリアリなことを痛いほど理解していますから。笑

形式上としての「健常者」には理解を示せますが、自分を表現する上での「健常者」という言葉には不快感が募ります。そしてすんなりこの言葉を自分を表現する上で使えてしまう人は、心のどこかに「障害者」を自分の下に見ている節があるような気がしてなりません(自分の経験上からもそう言えてしまうんです)。

 

僕なりの「健常者」の呼び方

なので僕は「一般の人」「普通の人」と呼ぶことにしています。

「健常と何が違うんだ!」と思われるかもしれませんし、じゃあ「一般」「普通」の基準って何?とも思われるかもしれません。

これに対して端的に答えるならば、言葉本来の持つ「意味」「イメージ」の違いです。

「健常」という言葉は「常に健やか」と書くわけですから、上でもお話した通りやはり「何も問題がない状態」を示す言葉だと思うんです。

それに比べ「一般」や「普通」といった言葉の意味はあまりにも広義にわたるため「こういう意味です!」と断言することはできませんが、それでも人間に当てはめて考えるならば「良いも悪いも含まれた言葉」だと思うんです。逆に考えるならば「特別でない」ということです。


僕に関連させて説明すると、僕には両腕がありません。でも「一般」「普通」の人には両腕があります。特別な事情がない限りは。そういうことだと思うんです。

あるいは全く別の角度から、それこそ少しぶっ飛んだ例え話をしますが、みなさんはこれまで「自分の腕を切り落としたい!」と思ったことはありますか?もし「ある」と答えた人は、正直ちょっとした異常を抱えている人だと思います。少なくとも「一般」「普通」ではありませんよね。だからこそ、身体的にその人は「健常者」であっても、内面を含めて考えるとその人は「健常者」ではないんです。まぁこの場合はあまりにぶっ飛びすぎてて「普通の人」でもないですけど。笑


たまにこうした「一般」「普通」の話になると「じゃあ普通ってなんですか?」と聞かれることがあります。正直「めんどくせぇ」と思っちゃうんですけどね。笑

シンプルに考えればいいんですよ。ある分野において、圧倒的多数を誇る物事が「普通」でいいと思います。そもそもプラスイメージの先行する「健常」とは分野も違えば程度も違う言葉です。分野や考え方によっては「良いも悪いも含まれる」のが「一般」「普通」なんです

だから僕は、一般的にはよほどがない限り「どの人にも何かしらの問題はある」と思っています。でも、だからと言って「障害がある」わけではない
だからこそ「障害のある人」と線引きをして「一般の人」と呼ぶことにしています。
(めんどくさい人間なのは承知の上です、すみません笑)

 

 

言葉選びは「センス」です

言葉の持つ力と選択の重要性

言葉について一々あれこれ考える人って正直あまりいないと思います。

僕は自分がこういう身体であるから、なおかつ元々「国語」を専門としていたからこそ、特に障害という分野に対してややこしく考えているんだろうと思います。

ですが、ちょっとした言葉一つで相手を傷つけてしまったり、不信感や不快感を与えてしまったりすることなんて往々にしてあるわけです。もちろん言葉を発した側はそんなことに気付かない場合がほとんどなんですけどね。


障害の有無に関わらず、誰しもが自身に関連すること、自身が気にしていることには注意を向けており、自然と発する言葉にも意識を向けるようになります。ですが自分との関係性が薄い事柄や、普段特に意識していないことに関しては、その言葉選びすら疎かになりがちな傾向があります。

でも日常会話をはじめとして他者と接する際に、自分の関心があることだけを話せるわけではありません。その際に、いかにお互いが気分良く会話を進めることができるか。一つ一つの言葉選びが重要になってきます

そこで大事なのはひとえに「センス」だと思います。ですがこの「センス」は何も先天的なものではありません。普段から「言葉選びに注意する」ことによって磨かれていくものだと思います。逆にいかに自分に関連することであったり、自分が経験したことであっても、無意識のうちにしか言葉を発さない人はそのセンスを磨くことはできません。それはつまり「いつ相手を傷つけてしまうかわからない」ということです。そのような事態を減らすためにも、日頃から相手を思い遣って話すことが必要です。

 

言葉について今一度考えてみてください

「障害者」「健常者」といった言い方はその代表例だと思います。

本人に悪気はなくても、何気ない一言で相手に不信感を与えてしまうことが多々あると思います。そしてそれは誰かに指摘されるまで、自分一人では永遠に気付かないことでしょう。

だからあえてこの場を借りてお話させていただきました。

もちろん、表現についてどんな言い方、呼び方をされようが一切気にされない方もたくさんいらっしゃると思います。が、僕のようにどこかモヤモヤすると考える方が多いことも事実です。

言い方、表現、伝え方はみなさん一人一人の自由ですし、「これが正しい!」ということもありません。僕が押し付けることも間違いです。

なので、もしこの記事をここまで読んでくださった方は、考えてくださるだけで構いません。ぜひ一度、表現の仕方について、そして言葉の持つ意味とその力について思いを巡らせてみてください。それだけで十分だと思いますから。

 

 

それでは今回はこの辺で。

ご一読くださりありがとうございました(`・ω・´)