【両腕がない】まこ先生の「障害と挑戦」を考えるブログ

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子どもの障害、認めてあげて

数日前に以下のような記事を見つけました。

withnews.jp

「障害児はどこでどのように学ぶべきか」、これは難しい問題です。

最近ではもはや「社会問題」になっていると言っても過言ではないでしょう。

が、この問題の大前提として、一つだけ言えることがあります。

それは

「まずは親が子どもの障害を認めて、理解してあげて」

「その子に合った教育を考えてあげて」

ということです。

親が子どもの障害を認めない限り、子どもは適切な教育を受けられませんから。

 

今回は僕が実際に見てきたケースをもとに、

この「親が子どもの障害を認められない問題」について

言及していきたいと思います。

特別支援学級の写真

 

 

僕が通っていた小学校について

特別支援学級がある一般学校

前にもちらとお話したかもしれませんが、

僕が通っていた小学校は、一般の小学校の中にやや大きめの特別支援学級があるという、少し特殊な小学校でした。

同市内に住む障害を持った子どもたち、特にやや重度の障害を持つ子どもは、

一般的な支援学校に通うか、あるいはこの小学校に通うかの2択に大きく分類されていたと思います。

 

障害児の数と障害の内容

障害のある子どもの数は、基本的に各学年に3〜4人程度であり、

全学年合わせて確か20人くらいでした。

もちろんその年によって変動があるので、僕が小学生の時の話に限定されますが。

また障害の内容としては、身体障害と知的障害が主で、

中には両方の障害を抱える子どももいました。

ただ割合としては、僕のような単純な「身体障害」だけというよりも、

何かしらの形で「知的障害」を抱えている子どもたちの方が多かったと思います。

 

支援学級の役割

普通学級の授業で差し支えない子どもは、

普段は他の子どもたちと同様に授業を受けます。

僕もそのうちの一人でした。

 

一方で、知的障害があるなどの理由で、

なかなか一般の授業を受けるのが厳しい子どもは、

支援学級で勉強するといった仕組みでした。

簡単な言葉を勉強したり、絵本を読んだり、ゲーム形式で算数を学ぶ、などですね。

一人一人に合った教育が受けられるのが、こういった学級の役割です。

 

ただ週に2時間、全体集会のような時間があったので、

僕もその時間だけはこの学級に集まってみんなと過ごしていました。

でも当時の僕は

「授業に遅れてしまうからできれば学級に参加したくない」

と感じていたのが本音です。

今となっては

「週に2時間くらい良いやん、みんなと仲良くしろよ」

と思いますけどね。笑

 

ただ僕がこの学級で、週に2時間と言えども

「僕に合った教育を受けられていたのか」と考えると、

そこには正直疑問符が付きます

障害の種類も程度も異なる子どもが集まっての集団授業となると

やはり一部の子どもにとっては物足りないものになってしまうのも事実です。

 

一般の子どもたちによる「障害への理解」

学校自体がこういった特色のある学校なので、

意外なことに障害のある子どもに対するいじめはまったくなかったんです。

みんな障害に対する理解を子どもながらに持っていたんですね。

いや、後述しますが「障害のある人」と言った方が正しいか…。

 

いずれにせよ

「知的障害があるからうまく話せないのは仕方ない」

「手足が悪くて〇〇ができないから手伝おう」

そういった意識が根付いていたと思います。

 

これは手伝ってもらう側にとってもちろんありがたいことですが、

障害のない子どもたちにとっても

「自ら率先して人の役に立とう、協力しよう」

という意識、姿勢を子どもの間に日常生活で養うことができ、

大変意義のあることだと思います。

子どものうちに「自分にできることって何だろう」と考える機会ってなかなかないですから。

こういった点では、同じ学校やクラスに障害のある子どもがいることで得られるメリットがあると思います。

 

 

知的障害のあったAさんについて

軽度の知的障害児

そのような学校で過ごしていた僕の同級生に、

Aさんという軽度の知的障害を持った女の子がいました。

会話をする分にはあまり問題なく、自分のことも自分でできる子でした。

が、やはり知的障害の症状は目に見えてしまうものがあり、

一般学級の授業を受けるのは厳しいだろうな、と僕は感じていました。

ですが彼女は支援学級に入っていなかったんですね。

それはなぜか。

彼女の母親が支援学級に入れたがらなかったからです。

 

我が子の知的障害を認められない母親

本人に障害があり、特別な教育を受けることが望ましいにもかかわらず、

こうした支援学級に属していない大きな理由の一つに、

この「親が子どもの障害を認めていないから」が挙げられると思います。

Aさんの場合もまさしくそうでした。

 

これは僕が実際に聞いたわけではなく、僕の母から聞いたことなのですが、

周囲の先生方は支援学級での教育をAさんの母親に勧めていたようです。

けれど、Aさんの母親は頑なにそれを拒絶していた。

「うちの娘に障害はない」と。

おまけに先生にも「うちの娘を障害者扱いしないでくれ」と伝えていたそうです。

 

本人は「学校の授業に全然ついていけない」と言っていた。

小学校中学年になっても、ひらがなを書けない、1桁の足し算ができない、前後左右がわからず苦しんでいた。

にもかかわらず、Aさんの母親は「障害じゃない」と考えていた。

これは後に聞いた話なのですが、

実はAさんの母親にも知的障害があり、本人は支援学校で育ったそうです。

この場合、自分の娘にも自分と同じ障害がある事実を認めたくないという気持ちもあったのかもしれませんが…それでも、障害を認めないことによってつらい思いをするのはAさん自身です。

そこはAさんの声に耳を傾けてあげてほしかったというのが今の僕の想いです。

 

認識がないことによる「いじめ」

Aさんの障害を母親が認めず、Aさんが支援学級に入っていなかったことによる問題は、「適切な教育を受けられなかった」ことだけではなかったと思われます。

もう一つの問題、それは他の子どもたちによる「いじめ」です。

 

僕は先ほど、

「障害のある子どもに対するいじめはまったくなかった」

と書きました。これは嘘ではありません。

ではなぜAさんはいじめられてしまったのか。

それは子どもたちが「Aさんに障害がある」ことを理解していなかったからです。

 

「障害者」であればいじめはなかった?

ほんとにみんな「障害のある子ども」に対しては優しいんです。

いや、「支援学級にいる子どもたちに対しては」と言うべきでしょうか。

 

僕のように自分に障害のある人間からすると、

知的障害の有無は見ただけ、話しただけで基本的にすぐにわかりますし理解できます。

ただ、障害とは無縁の子どもたちからすると、

「支援学級に属している」=「障害がある」という認識なんです。

逆の言い方をすれば、

「支援学級に属していない人間は自分たちと同じ普通の人間だ」

と考えていたんでしょう。

 

なので、自分たちが当たり前にできることをAさんができないとなった場合に、

「あいつはこんな簡単なこともできない〇〇な奴だ」

となってしまうんです。

これが僕のように一目見ただけでわかる身体障害であれば、話はまた違ったかもしれません

ですが知的障害、さらに言えば人とコミュニケーションが取れる上に、大体のことは自立してできてしまう軽度の知的障害であったために、周りの子どもたちから「障害者」だと理解されずいじめられることになってしまった。

何とも皮肉な話ですよね。

 

「子どもを守るために」と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、

でも、少なくとも彼女のお母さんが彼女の障害を認めて理解し、支援学級に入れていたならば…いじめられることはなかったのではないかと思われます。

支援学級に所属することが、ある意味で他の子どもたちと共存する近道になりえたような気がしてならないんです。

その点、Aさんは「障害を認められなかった」ことによる被害者なんだと思います。

 

これは何も特殊な例ではありません。

たしかに「障害者」であるからこそいじめられるケースもたくさんあると思います。

ですが、「障害者」と認められないからこそ苦しむこともたくさんあります

このAさんの場合もそうですし、例えば内部障害や精神障害をお持ちの方も、

「周囲に自らの障害を理解してもらえず苦しい思いをしている」

といったケースは数えきれないほどあります。それと同じだと思います。

「いかに自らに、あるいは自分の子どもに障害があることを認知してもらえるか、理解してもらえるか」

まずはここから始めるほかはないと僕は思います。

 

 

お父さんお母さん、認めてあげて

学校という「社会」で生きていくために

いくら小学校が地域に根差した小さな世界とは言っても、

小学校も立派な「社会」であることに変わりはありません。

何らかのコミュニティで生きていく以上、

やはり周囲との関係性が最も重要になってきます。

その点も熟考し、子どもの障害と向き合い、その子にとってベストな環境に身を置かせてあげることが重要のではないでしょうか。

 

「自分の子どもに障害はない!」

そう考えたくなることもきっとあるのだろうと思います。

ですが、そう考えて救われるのは誰もいません。

百歩譲っていたとしても、それはそう願う「親」だけだと思います。

社会で生きていくのは「子ども」本人なんです。

その子の将来を本気で考えるのであれば

「認める」という勇気も必要なのだと思います。

 

絶対に「できない」こともあるんです

特にAさんのような目に見えづらい軽度障害の場合に、

「子どもの障害を認められない」といったケースが多いのでしょう。

それは何も知的障害に限らず、発達障害、精神障害にも言えることです。

さらに「障害を認められない」ことに焦点を当てると、何も親だけでなく

「自分自身の障害を認められない」といったケースも十分に考えられます

 

ですが「できないことはできない」んです。

できないことはできないし、障害は障害なんです。認めるしかない。

突き放したような言い方になりますが、実際にそうなんです。

知的障害のある子どもに「勉強で他の子に勝て」と言っても無理なんです。

「考える能力が一般の人間より低い」から知的障害なんですから。

 

何もこれはそういった方々をばかにして言っているわけではありません。

自分自身に当てはめてお話しすると、

「コップを手で握れ」と言われても100%できません。

だって両手がないんですから。

「正座しなさい」と言われても100%できません。

だって両膝が曲がらないんですから。

これが僕の障害です。

一般の方なら誰でもできるようなことが、僕にはできない。

それをする能力が僕にはないからです。頑張ってできることでもない。

世の中色んな障害があると思います。

ですが、その障害を抱えている以上、絶対にできないことがある

それは自他共に認めるしかないし、

認めないと先に進めないと僕は思っています。

認めないと苦しくなることだってたくさんあります。

 

親の役目:子どもに合った環境を

上で「絶対にできないこともある」と書きました。

だからこそ、そんな環境に身を置くべきではないんです。

どんなに頑張っても「100%できない」環境に身を置くより、

頑張れば「できるようになる」環境に身を置く方がはるかにその人のためになる。

だからこそ、親はまず「子どもの障害を認める・理解する」必要があるのです。

少なくとも僕はもうAさんのように苦しむ子どもをもう見たくはありません。 

 

障害に限らず、どんなことでも嫌なことに向き合うのはつらいことです。

愛する自分の子どものこととなるとなおさらだと思います。

僕も昔はよく母親に

「できることならあんたと代わってやりたい」

と言われたものです。

「おれやからやっていけてるんやで笑」

と言い返してましたけど。笑

でもほんとに、それくらい親はつらい思いをしているんだと思います。

だからこそ、子どもとは真正面から向き合うべきだと思います。

障害があればつらいことが多いのは事実です。

ですがその障害を親に認めてもらえないのはもっとつらいことだと思いますから。

子どもの今を、そして将来を第一に、最善策を考えてあげてください。

それができるのは「親」だけだと思います。

 

 

自他共に「障害受容」って難しいんですよね。

そもそも何が「需要」なのか僕にもいまいちわかってませんから。

 

でも、この記事を通して少しでも多くの方、特に障害のある子どもがいらっしゃる方に「考えるきっかけ」を与えられればいいなと思います。

「障害当事者」である人間の一意見としてご理解ください。

ただ、自分が特別な環境で育ってきたことも重々承知しています。

なので「それは違う!」といった反論もあって然りだと思います。

本当に、あくまでも「一意見」として受け取っていただければと思います。

 

では今日のところはここまでとします。

今日もご一読いただきありがとうございました(`・ω・´)!